花街(かがい)・島原。幕末の方々も足蹴く通ったこの場所は、近年特別公開も行われるようになってきました。今回は2018年の特別公開、第43回京の夏の旅から、島原を紹介させていただきます。

「島原」その名前の由来とは

JR嵯峨野線の丹波口駅を降り、中央市場の横を通って向かって行くと登場する、ひっそりと佇む島原住吉神社。青い巴紋て珍しいですよね。

「島原」という名前の由来は、三度の移転騒動が九州の島原の乱を思わせたから、とのこと。

教科書に書かれるような全国的に知られた騒動を思わせた…ということは相当なすったもんだあった末の現在地なのかもしれませんね。

この神社の近くには島原西門碑があります。
内容は下記写真の通り。
享保年間に建てられた西門は昭和まで続くも、1977年に全壊、3年後に復元するも1998年に倒壊し、現在は碑を残すのみとのこと。

道幅などに、なんとなくこの辺りなんだろうな、という雰囲気を感じることが出来ました。

現在も営業中の、唯一の置屋兼お茶屋

西門から進み、まずは輪違屋(わちがいや)さんの外観を拝見。
現在も太夫が在籍し営業を続けていらっしゃる、置屋兼お茶屋さんです。

第43回 京の夏の旅 文化財特別公開|京都市観光協会第43回 京の夏の旅 2018年7月~9月(現在は終了しページはございません)

旧花街・島原で元禄年間(1688~1704)の創業以来営業を続ける唯一の置屋。かつては芸妓等も在籍していましたが、現在は太夫のみとなっています。襖に太夫道中傘(どうちゅうがさ)を貼りこんだ「傘の間」や壁に本物の紅葉を塗りこんでかたどった「紅葉の間」など斬新な意匠の座敷が残っているほか、新選組の近藤勇の屏風などがみどころです。(京の夏の旅より抜粋)

この輪違屋さん、数年前から一般への特別公開をしてくださるようになったのですが、私は初公開時滞在が一日だけずれていて拝見することができず、その後も機会を逃し続けております…。
いずれ必ずお伺いしたいところです。

輪違屋(わちがいや)

住所下京区西新屋敷中之町114
※見学受付は15:30まで

島原開設当初から残る、揚屋建築唯一の遺構

そして、輪違屋さんから程なく行ったところにある、同じく2018年夏の旅で特別公開された角屋(すみや)さん。
輪違屋、角屋の二軒が同時期に公開されたのはもしかしたら初めて…ではないでしょうか。

旧花街・島原開設当初から残る角屋(重文)は、江戸時代の饗宴・もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構。江戸期の文化サロンで饗宴のための施設であることから、細部にまで意匠を凝らした見事な建築が残されています。また、当時は新選組が通ったと伝わり、刀傷も残っています。「松の間」「網代の間」などの1階部分が公開されるほか、西郷隆盛が行水に使用した盥(たらい)や新選組掛売禁止の古文書などが展示されます。(2階座敷と美術館はご覧いただけません。)(京の夏の旅より抜粋)

ちなみに角屋さんで受けた説明によれば

・置屋(おきや)…太夫や芸妓を揚屋や茶屋に派遣するお店
・揚屋(あげや)…料理を作り食事や芸を楽しむ場所を提供するお店
・茶屋(ちゃや)…料理は作らず場所だけを提供するお店

なのだそうです。完全分業制ですね。

最初にご紹介した輪違屋さんは置屋兼茶屋、そして角屋さんは揚屋。
“あげや”と聞くとどこか異空間に感じてしまいますが、現在の料亭の元だと思いながら見ると、その造りに当時の活気や雰囲気に想いを馳せやすくなるのではないでしょうか。

一歩中に入ると広がる華やかな赤い壁。

同じ高さにある木の「こぶ」も気になりますね。昔は何か設置されていたのでしょうか…。

角屋さん、建物内に入るとまず驚くのは台所の広さ

台所だけで百畳もあるのだそうな。

明治5年に置屋としての営業は終了し、昭和60年まではお茶屋として宴会業をしていたそう。最盛期にはこの台所がフル稼働で大勢の方が慌ただしく働かれていたのでしょうね…すごい。

中庭もしっかりと手入れがされており、美しいです。

こういった、障子と硝子を利用して額縁のように作られる景色が好きです。素敵ですよね(*^^*)

優美。

幕末の足跡

京都島原は幕末で活躍された人物たちが通った場所。

特に新選組の面々はよく利用していたと伝えられています

至るところに、幕末の息遣いを感じられるポイントがありますよ。

こちらの大広間は、芹沢鴨が暗殺されるその日に呑んでいた場所といわれているとか。とっても気分よく酔ったんでしょうね。

この広間から見える松は、それはそれはお見事です。

夜は木々の隙間から見える月も合わさり、芸妓さんの唄や舞などと共に過ごす一夜は、雅な時間だったのでしょうね。
夜間拝観は叶いませんが、一度夜の風景も写真などで拝見してみたいものです。

「新選組の刀傷」と伝えられている傷。

実際に足を運んでみると“花街”という面だけでなく、何故彼ら新選組が島原をよく利用したのかということも見えてくるような、そんな場所でした。

私は四条河原町から京都駅を経てJR嵯峨野線で向かったので「一駅とはいえちょっと遠いな」という感覚だったのですが…後から地図で確認してみると、新選組の屯所となった壬生の八木邸からも西本願寺からも地図上では行きやすそうな場所にあります。

もちろん、八木邸や西本願寺から実際に歩くとそれなりに距離を感じると思いますが、この頃、伏見の寺田屋や河原町三条の池田屋まで歩いて行っていたことを考えると、全然近いのではないでしょうか。

そして幕末当時島原の周囲は田んぼだった。
隠れる場所のない田園地帯は急な敵襲などが考えにくく、また御所や藩邸から離れているので、密談をするにも少し息抜きをするにももってこいだったのかな…などと妄想してしまいます。

角屋さんの看板説明では「角屋で密談をしていた勤王志士である西郷隆盛や久坂玄瑞を探して新選組がよく訪れた場所」とありますので、御所や金戒光明寺から離れた場所を、偵察がてら頻繁に探りを入れていた…という面が強かったかもしれませんね。

京都は歴史の舞台となった場所がたくさんありますので、それぞれの場所へ行ってみたり場所と場所の距離を実際に感じてみることもとても楽しいです。

他には西郷隆盛が行水などに使用したとされる桶が。

ここ角屋は第二次世界大戦中の1945年、予め空襲の延焼を避けるために取り壊す話があったそう。
そこで京都市の担当者に視察に来てもらい、明治維新に関わった西郷隆盛らが使った遺構であるということを理解してもらい、取り壊しが延期、そのまま戦後を迎え今に至る…という経緯があるそうです。

8月に終戦を迎えるわけですから、本当に僅かな時間の差だったのですね。

また、展示室には久坂玄瑞宛ての書簡や本人書簡なども
今回の夏の旅では美術館は観られないということですが、特別公開期以外では美術館の他、予約をすれば2階を拝見することもできるそうです。
季節を外してお伺いしてみるのも良いかもしれませんよ。