投稿日 2019-04-15 最終更新日 2021-05-03
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私は京都が好きである。
だが、今年に入って京都のニュースはネガティブなものが増えた。
「観光公害」の問題だ。
インバウンドで観光客が増えすぎて在住の人が困っている。
外国人観光客が増えすぎて日本人観光客が減っている。
京都が急激に京都らしさを失くしている。
中国資本にのっとられ始めている。
そんなニュースばかりが入ってくる。
私も所詮「観光客」側の一人だ。
どんなに京都が好きでも住んでいない。
好きな時期に好きなように行き楽しんでいる。
人が多い所にも行くし、新しい場所にも行く。
私は京都人を疲れさせる「観光客」の一人なのである。
ネガティブなニュースを多く目にするようになってから「京都いいよ」「ここオススメだよ」と書くことが躊躇われて、なんだか書けなくなってしまった。
というか、何をどう書いたらいいのかわからなくなってしまった。
先日ふらっと桜を観に行ってきたのだが、相変わらず好きな街だ。
四季が魅力で、気持ちも晴れやかに涼やかになる。
だが行くたびに街にはホテルが増え続け、錦市場はもはや食べ歩きストリートになり、通りを一歩入ると外国人専用と思われるような英語だけのお店ができていた。
京都在住の方々の疲労のため息。
「実際疲れ切っている」という話も聞いた。
長年行きたい場所の世界ランキング1位に君臨していた京都。
世界中から「行きたい」と思われる場所であることは素晴らしいし喜ばしいことだと思う。
実際に京都を楽しみつくしている外国人の方も多いことだろう。
「東京も観光公害すごいでしょ?」と尋ねられた。
どうだろう。
明らかに外国人は増えたけれど、観光客が多くなったから生活が大変になった、なんて感覚はない。
浅草とか上野とかは大変になっているのかもしれないけれど、そもそも東京は元から人が多い街だ。
私の中では東京では「職場」と「観光地」と「居住地」は全然別の駅である、という感覚だ。
だから住宅街やオフィス街が観光客で溢れて困る、という感覚にはならない。
何より、東京は元々「変わり続ける街」であるので、新しい高層ビルとか商業施設が出来ることに、住んでいる人も住んでいない人も多分そんなに抵抗はない。
だが京都は違うのだ。観光地と職場と住宅街が同じ空間にある。
借りていた普通のマンションがいきなり民泊として貸し出されていたり、職場に行くバスが観光客だらけで乗れなかったり、食事する場所が入れなかったりする。
「古き良き」ものが壊されていけば「京都らしさ」とはなんだろう、になってしまう街なのだ。
歩いて神社仏閣などを回れること、飲んだ後歩いてホテルに帰れること。
そんなことができる街・京都は私にとっては最大の魅力だが、つまり住んでいる人には日常にいつも「観光客」が紛れ込む。
長いこと観光地であった京都なので「ホスト」力はとてつもなく高いと思うが、近所にホテルが建ち、住んでいるマンションが民泊に使われたりしたら、24時間365日どこにも「オフ」の状態がなくなってしまった、のだと思う。
需要と供給のバランスというのは本当に難しい。
仕事でもそうだが「今一度にきた依頼が、スケジュール分散したら全部受けられるのに」みたいな状態は時々起こる。
稼げるときに稼ぐ、というのは大事だとも思う。
一方で、キャパオーバーでぶっ壊れないよう抑制する、という決断も凄く重要だ。
インバウンド需要はいつまで続くかわからない。
その「いつまで続くかわからない」状態が突然終わった時、ホテルだらけ、外国人向けのお店だらけ、町屋や和風建築のなくなった街…が『京都』として魅力だろうか?
だが、外国人が多いなら彼らにお金を使ってもらうように街が変わっていくのは当然なのだとも思う。
町屋や茶屋が体力をなくし、維持や経営が出来なくなって不動産に売る。
土地や建物が売れるのなら、それが中国資本でも東京資本でも構わなくなる。
そうすると「その時売れるもの」になるので京都らしさは関係がなくなってくる。
日本人の資金力がなくなり、土地や建物を持てず、日本人が行ってお金を使わないのに、地元の人に「京都らしくあれ」というのもおかしな話だ。
明日のご飯を我慢して建物の維持につとめろ、文化を守れ、なんてことはいえない。
明日食べるご飯の方が大事である。
結局何が言いたいんだろう、というと私も書いていてよくわからない。
観光に行った時にはこうあって欲しいという京都と
住んでいたら本当に大変だし疲れるだろうなという気持ちと
経営や稼ぐことを考えたら変化が起こるのは当然だしなって思いと
今のままホテルやら新しい店やらが出来続けたら5年後には京都どうなっちゃうんだろう
という気持ちがごちゃごちゃになっている。
京都自体が潤ってほしい。
神社仏閣京料理文化四季折々を楽しめる場所であって欲しい。
街が潤うためには大きな会社や大勢の観光客が必要だ。
「京都」らしさを残して欲しい。
文化財を残してほしい。
京都は文化財が多すぎて財源が厳しいらしい。
守るには維持するには人がきてお金がたくさん落ちないと難しい。
人はきすぎないで欲しい。
でも人が来なければ廃れる。
多すぎると住んでいる人が困る。
宿が増えると、街がパンクする。
需要と供給のバランスが明らかに偏っている。
ほどほど、って本当に難しい。
10年前には「冬の京都に人来てもらうように頑張っている」なんて話をきいたのに。
結局「住んでいない」人間だから、日常のしんどさがどれだけなのかはわからないし、でも10年以上好きで通い続けてきたから「居心地の良い京都」であって欲しいとか、本当にごちゃごちゃな気持ちである。
でも結局、京都に人がいなかった時期でもインバウンドでごっちゃごちゃの時期でも行き続けている私の結論は
「好きなお店とかお寺とか場所とか、“自分が好きだと思う京都”の部分にお金を落とし続ける」
になるのかな、と思った。
そして、そこで働き住んでいる人に敬意を払うこと。
インバウンドが終わって、止まったり、次の何かの波が来たりした時も変わらずに。
近年自分が好きな俳優さんとか歌手とかキャラを「推し」と表現するが、
私は京都箱推しなのだ。多分。
箱推し。京都ごと。
本当に何を書きたいのかよくわからないnoteになってしまってすみません。
気持ちはぐるぐる、まとまりません。
でもネガティブ記事になんともいえない気持ちになって、なんかこのまま京都のオススメなんて書いていいのかとか、京都行っていいのかとか凄く複雑な気持ちになって。でも行ったらやっぱり大好きな街で。
「やっぱり好きな街だなぁ」と再認識したら、このモヤモヤっと抱えていた気持ちをどんな文章だろうと出しておかないともう京都についての記事が書けないなと思いました。
住んでいる人、勝手なこといってんな~と思ったかも。すみません。
でもやっぱりとても好きな街で、おススメしたいところはおススメしたいので、また京都を書こうと思います。
まとまらない文章を読んでくださってありがとうございました。